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園長の独り言

園だよりに載せている「園長の独り言」です。
園長の園児に対する思い等綴っていますのでぜひご一読下さい。
令和3年度

(令和3年度5月)
新しく入園して来た子達の生活が始まった。泣く子、笑う子、暴れる子、賢者の顔で哲学する子、子供達の表現は豊かである。

入園の祝辞に重なるが、友との出合い、友と育(はぐ)くむ友情の大切、互いを理解する勇気、絆を持つ喜び。未知との遭遇を虎岳の庭に繰り広げ、自らの探究心と心意気を仲間達と謳歌するのである。後ろで見守る父親の存在にを貰(もら)い、笑顔で語る母の優しさを横に感じ、前の未来と希望を仰(あお)ぎ、やがては引っ張って行く時代と青春を後ろに残す、その序章がこの4月に始ったのである。

我が若虎達よ、左右に暴れるが良い、存分に天地の間を翔()ぶが良い、いずれ時代が君たちを呼ぶ。その時に時代の形を考え、その時代を小脇に抱(かか)えて走れば良い。

只管(ひたすら)走らなければならぬ時が何(いず)れ来る。時間は有る。その時の為に身体も鍛(きた)えておこう。“青天を衝()け”とNHKの大河も言うとる。今は自然の中に身を頂けて大いに遊ぶのだ。

子供達の健(すこ)やかな成長と安全を祈りつ子供達と御家族の皆様と共に歩んで参り度く思います。

令和2年度

(令和2年度3月)

 自然が1年を4分する。

 春の梅が冬の雪を割る、天を燃やす夏の烈が人を山海に追う。濃い碧色(あおいろ)が秋の空を押し上げる。“ならば休め”と許(ばか)り視界を冬の白に染める。

 糸山(いとやま)に飛ぶ鳶(とび)が気になって放っとけない。半輪の月を両背翼に白く画(かく)し、海峡、来島の上を悠と飛ぶ、だが羽ばたかぬ、1020分そして30分と羽ばたかない、落ちる物体が浮いているそれも舞っているのだ。ただ驚くばかりである。自然を呼吸し、大気と同じ波長に自らを揃(そろ)える。何時の時代からこの技(わざ)を身に付けたのか果して何万年も逆上るのか? 最近、気付いた衝撃である。

 千四~五百年程前か、“飛ぶ鳥”と書いて“あすか”と称()ばせた時代が在った。飛べぬが故の人間の憧(あこが)れからなのか、ワケは知らぬ。意外と暗示の片隅(すみ)に鳶が創(つく)る自然との調和も或いは一役買ってはいなかっただろうか、糸山が抱く瀬戸が物語りの調(しら)べを風に乗せる。“何()やろ‼”と6世紀の飛鳥の悠人(≒暇な人)に電話でも有れば聞いてみたい。観て飽()きぬ贅沢(ぜいたく)な朝の一瞬であった。



(令和2年度11月)
 
保育園で使う軽(自動車)を時々私も使う。車体とサイドミラーの間に蜘蛛(クモ)の巣がある。20㎝位の大きさに広がっている。気付いたのは2月頃。普通、クモは巣の真ん中に居るが、何時も居ない。4月中旬頃だったか一度見た。サイドミラー付け根の1ミリ程の隙間(すきま)にコゲ茶みたいだが黒っぽくも見える1ミリに充(み)たぬ体だ、途惑(とまど)う程に見えにくい。この11月古稀(こき)4春の野に齢(よわい)74を迎える私だ、視力にも相応の反応は止められぬ。
 2月の寒さ、7月の長雨、8月の猛暑、車の鉄板の反射熱も50℃は下るまい。穏やかじゃない暑さを、このクモは耐えた。強い風や雨にも自身の糸をしなわせ、身をたわませ、削(けず)った体でこの小さな巨人は自然の大に、一人対峙(たいじ)した。その巣が今はもう無い。見せた後ろ姿の粋(いき)なこと!! 又何処かで逢(あ)いたいものだ。


(令和2年度7月)

 
風は見えぬが木の葉を揺らす。意識も見えぬが人を動かす、時報で人は時を知るが音は見えぬ。人間の持つ五感(視・聴・嗅・味・触の感覚)とこれを基に予感として生れた第六感、全て体内に在る。先18()年長組に邪魔し若衆達と昼を共にした。カレーであった。見れば判る子供達、カレーに目が無い“掛かれ”とばかり第六感迄、総出のフル活動である。カレーの戦いが始った。直ぐに終わる。御飯に限りが在る。若さの前に情(なさけ)も時間も彼等の後ろに廻わるしか無い。食前“能()く噛んで”と皆で歌う、あの立派な戒めは一体何んなんだ。時の偉大を速さで勝負する。彼等の“時の哲学”が生れる瞬間である。

 今日は食べ遅れたが明日が在る。年長に成った責任も有る、武士の情という奴か、此処は苦笑(にがわらい)で自分を制(おさ)える。

 生きるという毎日を子供なりに葛藤(かっとう)しているのだ“人が生きる”と書くそれが人生である“今日は譲ったが明日の人生は私が主役だ”“明日は”昨日の私では無い、目に物を見せてやる。眼の光の奥に炎が見える。食べ終わった食器を担任の所へ運ぶ “もう御飯終わったの、ゴメンネ”と担任が笑みで応(こた)える。子供達も“許す”と笑いで答える。戦う意思も赦(ゆる)す心も子供達は既に持つ。何()ちらも受け容れるのが担任である。



(令和2年度5月)

時に出掛ける糸山(いとやま)に鳶(とび)が居る。天髙く浮いている如うに飛んでいる、飛んでいる如くに流れる。殆んど羽ばたか無い、まるで浮いている。大気を上手(うま)く掴(つか)んで共に流れる、逆っても浮いている。戯(たわむ)れる如くに大気に抱かれて舞う、左右の背、両翼併(あわ)せると半月形の半円が見える。月形半平太と命名した。半平太のあの哲学的とも言える翔()び方に我と時をつい忘れる。吸い込まれるが如くに見惚れる。半平太の眼下に瀬戸の流れが広がる。干満潮時前後の潮の流れはとりわけ速い。雨後の大河さながら、持ち去る様に海全体が動く。泡(あわ)と白く騒ぐも流れに乱れは無い。壮観である。この流れや景色の瀬戸を下界の港(ちまた)と睥睨(へいげい)する。し乍ら画板に置いた大気に輪を画()いたり、直線を自在に入れ、ピーヒョロロと唄う、昔の演歌に “トンビ()がクルリと輪を画いた、ホーイのホイ。”というのが有る。いい歌だ、“ホーイのホイ”が笑える。程に面白い。“聞け、我が友、ハンペータ、今一度この歌に酔うが良い‼”優しく私は唄うてやった、聞こえた。のだろうか、瞬(まばた)く間に居なくなった。“冷(チメ)たい奴っちゃ、オンシは‼”と言い乍ら糸山を降りた。


2019年度
(2019年度11月)
秋も深まった。子供達が園庭に走り出る。遊具に群がる、ボールを蹴る、砂場に遊ぶ、2人で笑う子、1人で呟(つぶや)く子、捕まえたダンゴ虫、先生に見せに来る子、子供は遊びの天才。見守る自然は無言である。ある、かに見える。答えぬ自然に話しかけている、独り言(ひとりごと)しているのだ、或いは何か聞こえて来るのかも知れない。時を忘れ呟やく、会話しているのである。
自然が子等を酔わして呉れる自然が子供は大好きなのである。自然全てが彼等の教材であり、友でありまさに偉大な教育者でもある。今朝も子ども達、秋の大空に“これでもか”と若さを谺(こだま)させる。一日の始まりである。

(2019年度5月)

雨後の一滴が葉から落ちる。葉も揺らさず音一つ出さぬ。・・・・かに見える。しかし そうではない。僅かだが見えぬ程の動きと聞こえぬ程の空気を揺らす音が有る。後ろを見ぬ一滴の無心の潔(いさぎよ)さが葉には凛凛(りり)しく映るのか、岳窓を巣立つ園児を式(卒園)で見守る担任の心境に重なる。

そして4月の入学式、子等の前途に輝く未来が有り側(そば)には青春を共にする友や仲間が居る。振り返れば父や母の笑顔が有り 家族の信頼が子等の背を前に押し出すのである。夢も希(ねが)いも努力の前に天は万人に等しく用意している。

若虎達は、それに応(こた)える若さも逞しさも有る、智恵も出来た。旺盛な好奇心も人には負けぬ、春爛漫の桜花に祝福され “いざ行かん” との頼もしい “面(つら)構え達” の入学式であった。

そして虎岳にも新しい “若虎達” の入園である。 “ようこそ虎岳へ、あなた方の時代が始まるのだ。存分に暴れられ度い!!”

平成30年度

(平成30年度2月)

年端(トシハ)の行かぬ子,程迷わぬ.欲望も直接的である.生きる本能が食と先ず繋ぐ, 目に映る的(マト)の全てを目で追い届ば手で口に持って来る,届かなければ口を近づける.等しく本能への答えである.考え始める時,()は 迷う,興味に応じて迷い,子も大人も迷いに境いは 無い.迷う事が自らを納得させる為の咀嚼(ソシャク)なのである確実な土台を創る為なのである。グズグズ逡巡(シュン ジュン)する,迷った子が "腕を組む" 智恵を絞り出しているのだ,組んだ小さな腕が  "近づくな ! " と言う.邪魔をしてはいけない " 程に健気(ケナゲ)な姿が3歳のジレンマと対峙(タイジ)しているのだ.未だ幼児だ," 如何にも凛々(リリ) しいではないか?  " 迷いの無かった進歩 が世の何処に在()ったか? ",決定の前提に一瞬の躊躇(ためら)いも本当に無かったか? 未だ届かぬ大人に憧れているのだ, " 憧れる父の背 " を挑んでいるのだ. " 優しい母の包容が夢を見させて呉れている事も知っている。" 迷うな男は !! " と父は言う。" 迷っていい,から!" 待ってるネツ、と母は言う. ()ちらも偉大な教育である何ちらも3歳に必要な哲学である.  " 迷い" と言う前進でも後退でも無い " 0 " に近い無の世界が子にも有る.  " 迷い " " 煩悩 "と人は言う, それも108 ' 人の世に在る "と言う。私は,一日10余り出る事とてある、108どころでは無い.  " 迷う事が果たして遠回りか?選ぶ事が智恵なら、迷うことも偉大な知恵、〝迷って子は育つ〝迷う子程,育つのである。

(平成30年度11月)

  運動会の予行演習の日であった。2才位の子が母の手を離れ父兄の中を歩く。気付いた母親が連れ戻す。演技を観ている母の手が再び無意識となる。“今だ”とばかりこの機を逃さない。

 狩りに出る男の本能は太古の昔から変わってない。何度目かのその遠征途上、その子が不図(ふと)私の前で立ち止まった。小首を傾(かし)げ私を見上げる。大きな黒い瞳である。一瞬だが“千古の昔まで映し出しているのでは?”と思わす程に目が澄(す)んで碧(あおい)い。側に居ない我が子に気付いた母が私の前を一礼して子を連れ戻す。もしかして映しているのは飛鳥時代なのか、天平の甍(いらか)か? 今度は私の想像が止まらない。いや平安を越え室町の3丁目の角あたりで遊んでいるこの子を探しに来た母親に“ご飯だよ”と連れ戻される黄昏(たそがれ)時なのかも知れぬ母の意識と意識を、子の本能が揺らす。この母子の心理攻防が愉快であった。遠くないほんの昨日だったやに谺(こだま)して来る。

 脈絡の合わぬ乱れた想像も子の無意識と重なって愉(たの)しい。あの円(つぶ)らな瞳が千古に誘(いざな)う不思議な一瞬であった。

 



(平成30年度5月) 
月曜と金曜に、子供達は正座する。

 天と地の間に自らを置き “姿勢を正す” 続き “心を正す” と5分程の剣道の前に

皆んなで座して声を和する。

天の気を己を通し、丹田(たんでん)で受け地に送る。姿勢と心を正すのは、その為でもある。

日本の “道文化”(茶道、華道、書道ほか武道等)の基本の一つがその正座であろう。自らの重心を地に低く据え、自らの心を大気に鎮(しづ)め自然を呼吸するのである。“以心伝心”という自然との会話である。世に出て未だ3才、5才だ、解らなくて良い。やっている私とて解っている訳ではない。“自分で呼吸しているのだ”と今、在(あ)る現在を慈(いつく)しめばそれで良い。

 又、人(成人)としての時の流れに “正座した” “呼吸した” と憶(おも)い出す一瞬が有れば、それも愉(たの)しい事ではないか。

 正面に座礼の後、児童は立ち竹刀(しない)を正眼に構(かま)え、上段から中段に10本を振り下ろし、天の気を縦に切り揃える。次の気合いで束(たば)ねた大気を己に木霊(こだま)させる。朝の剣道の5分である





平成29年度

(平成29年度10月園だより)

今年も暑かった。肌を刺す夏が去(い)った。稲妻一閃(せん)が闇を袈裟に切る。一陣の雨が夜の静を縦に揃(そろ)える。夏の烈が終る。暑の酷を過去形にする。一閃や一ト雨が秋への序曲である。鎮(しず)まった日暮れ時、一抹の淋しさを覚える。“さよなら”の一ト言が余りに短い。

一方、驚かされた夏でもあった。或る午(ひる)下がりの夏の盛り、子供達が運動場を走っている。それも淡天下の2周である、更に驚いたのは、走った後、堰(せき)を切った如うに、子等の喜々とした突進である。総合遊具、砂場、だんご虫にまで、それぞれに、目標に走り寄る。興味に焦点した彼等の前に夏の烈も疲れも範疇に無い。

   砂鉄が磁石に吸い寄せられるが如くに暑を蹴って見事な縦を造(つく)る。呼吸だけで汗が散る、夏その渦中に、である。其処には担任の指導角度の綿密な計算と潔(いさぎよ)いバランスや自信の程、が窺(うかが)える。

真夏に挑んだ児等の逞(たくま)しさが眩(まぶ)しかった夏、であった。


(平成29年度夏休み園だより)

オスのカブト虫をT君が園に持って来た。

濃い褐色だが不気味に黒光りしている。

冑(かぶと)から突き出た太い角、背中の甲冑(かちゅう)にはT字を画して翼を格納している。矢をも弾(はじ)く部厚さと背の曲線に狂いも落度も無い、児等の眼を瞬(まばた)きさせぬ。戦でも無いのに直(す)ぐにも出陣出来る出で立ちである。現代を無視した現代の不思議が有る。歩き方まで穏やかではない。しかし、地球の歴史と断層を背中で揺っているのだ、児等の胸騒ぎが鎮(おさ)まらないのである。

 担任の服に虫を這(は)わせ“ギャーッ”と断末魔の声を上げさせた廉(かど≒疑り、罪)でカブト虫を教室に持ち込ませてもらえない。胸とは踊る事がある。踊ったのは私だ、この隙(すき)をみて下駄箱上に置かれたカブト虫を2度、3度、観に行った。自然叙景に優れた赤人(山部の赤人)だって、近くの山を歩いたはず、幼少にカブト虫を見たら、男だ、T君と同じ胸が騒いだであろう。想像故の事実で無い危険は有る。が想像が許す自由に、それ故の“そうでない”という左証とて同様に無い。のが想像である。アレキサンダー大王も聖徳太子も同じ男、幼少にT君と同じ。担任に断末魔の声出させて家の親には“真面目に先生の言う事聞いとります”と言う様な顔されて居るれた、やも或いは知れぬ。夏が来た、休みが始まる。子供達が野に山に海に街に自らの自然を楽しむ。陽焼けした9月の顔を見るのが楽しみである。


(平成29年度5月園だより)

 見送りの母と門で別れ、階段迄の78mを小走りする。右足の一歩でカバンも右に揺れる。次の左は僅かだが重心が左に移る。まだ、真っ直ぐ歩けない。その分、背中でカバンが踊るのが楽しい。2才に成った許(ばか)りである。体より大きく見えるカバンには国の将来も詰っている。人生の未来も“今か!と息を潜(ひそ)めている。子分の如うに従え、大事な箸も忘れては居ない。ハンカチは母の優しさ、出席ノートは毎日を約束した法律だ。全てが在る。友や仲間と今日創(つく)った青春も帰りにはその隙間(すきま)にねじ込む。今日の出来事だ!!とNHKみたいに母に報告するのだ。自慢と呼吸が動悸している。“そうかい、頑ん張っとったんかいね!!とそう言ってもらえる父とハイタッチしたいのだ。”今日も一日人生をやって来た!!“…と未だ2才だからそうは言わない。しかし私にはそう言っている様に見える。

毎日の呼吸が子供達の人生との渡り合う真剣勝負なのである。其処に意識は無い、無意識の無限が横に在る。




平成28年度

(平成28年度10月園だより)


年長のクラスで昼(食)を共にした。

食べる早さ競うのは今も昔も同じ、それもほぼ男たち。「食べるの早いの誰?」と聞く私。「K君」と児童の多く(大半が女児)が指さす。指(さ)されたK君ニコリとしない。流石(さすが)食べるのが速い。箸(ハシ)を机上に置く音を誰にも(彼より)先に“ヒット”(音)させない。食後の食器を置きに行く5mを誰にも先に“ラン”(走ら)させない。「ノーヒットノーラン」今日も完全試合だ、と言わんばかりの早技である。食前に「残さず(ご飯を)、よく噛んで」と食事マナーを皆で歌う。「食後の食器置く5m先の先陣争いが胃の消化に成るではないか」と思うのか、余り噛んどる様子は無い。「見せる背中が男の意地」とでも言うのか、振り返える顔もニコリとさせぬ、と言うより、慣れているのかごく自然な顔だ。翻(ひるがえ)せば、退(ひ)いて残す危険に吾を晒(さら)す、粋(いき)に見せねばならぬ男の引き算がある。というのだろう。

解る気がする。“負けるな、頑張れ、立派な努力だ、又食事しよう。意地で見せる男の背中、又見に行くけんネ。”


(平成28年度夏休み園だより)


 年長と年中が湊の城慶寺を訪(たづ)ねた。座して禅と向き合った。焼香の儀も習い、般若心経も和尚(おしょう)さんに続き3度唱(とな)えた。難しい漢字に真剣な障害走を子供たちはやった。木魚(もくぎょ)も軌道修正してくれた。参禅もこれで
2度目となる。“心を無にして下さい。空(から)にすることです。”と一度目の時教わった。

座して己(おのれ)を鎮(しづ)める、鎮った大気と同じ髙さに座る。“身も心も洗われる”という、何だか体にも良さそうではないか、というのが始まった動機である。目を閉じて観る世界が在る、閉じて覚醒せよ、という。黙して通ずる言葉が有る、座して心を開け、という。無にして?(つな)ぐ言葉が有る。己(おのれ)と語れ、という。空にして捕(つかま)える“まこと(真理)が在る。それが禅である。子供の一人が言った。“園長先生、眼え閉じたらなんも見えんかったヨ”と。“見える訳がない”と言いたいのである。

和尚さんの説法を前におそれ(畏れ)を知らぬ哲学に鎧(よろい)も迷いも要らぬ。振り返りたくなる様なニクイことを言うではないか。しかし、言われてみれば無()ならば洗うに濡れるものも無い。それでも何処(どこ)か洗われる様な気がする。そんな気がしないでもないのだ。しかしそれで良い、気の所為(せい)かも知れぬ。心が洗われる、という事がそういう事なのである。お寺から出て来た児等の顔が又、逞しく見えて来る。何故か帰路、一人私はニヤついていた、ノデス。



(平成28年度6月園だより)

子供は戯(じゃ)れ合うのがこの上なく楽しい。チョッカイした相手が反応する。その縺(もつ)れが求める醍醐味である。チョッカイされる相手も今が遅しと焦()がれ待つ。楽しむの合言葉が戯(じゃ)れ合うに等分される。担任を怒らせるのも友との、この合言葉の延長線上に在る。

“何()うしてそうするの。止めなさい。この子はモォーッ!!”と。このモォーッは子供にとり魅力有る安定剤である。担任の降参にも似た微妙なり言葉“モォーッ”に勝利の快感さえ響くのである。その続きに“知らんけんネッ”の突き放し宣言も言外の“君達を見放したりしない”との母性本能を既に読み盗()っているのである。母から生れた分身だ、母性の謎解きにカギなど要らぬ。注(そそ)がれる視線は他人にでは無い、全ての愛情が自分へのものだと子供は酔う。

意識は無いが世間が私に合わせに来る。それが反抗期だ、と言わんばかりである。しかしそうではない。その全てを識()っての母や担任の母性本能だ、何(いず)れ知る時が来る。と座視する余裕を何とか見せる。

我が愛(いと)しき爆発分子の魅力達よ、君達は虎岳の偉大から出()でて虎岳よりも偉大になる。師(担任)は言う。どんとかかってらっしゃい!!と。


(平成28年度5月園だより)


 家族という最も親密な核より、100を超える見知らぬ他人との接点の連続が生活の毎日である。

 驚く子も驚かぬ子も等しく新入園児は挑む世界に希望、期待、憧れと共に戸惑いや不安の多少を抱いている。しかし子供は好奇心の塊(かたまり)である。柔軟な発想、旺盛な探究心、臨機応変の適応力、そして溢(あふ)れる若さ、何れの点に於いても大人の想像を上廻る。自然な笑顔が戻って来るに左程の時間は掛からない。教育とは子供を尊敬すると書に言う、幼児教育の原点は幼稚園の教育や環境と大きく重なる。健やかな成長や心身の揺るがぬ基礎や人間の基礎が培(つちか)われる創造空間が虎岳である為にも教職員一同一つになってお子様の大切な成長期をお預かりしたいと思います。輝ける新しい若衆の皆さん“ようこそ虎岳へ!”


平成27年度


(平成27年度1月)


強いと思っていた自分が迷った。

弱いと思っていた自分が立ち止まる強さを知った。

涙で辛さを消した。その涙も笑いで拭いた。無い物を自分で探した。

見えない物も沢山あった。しかし、“皆んなと居る”ことがよく見えた。過ぎた一年は疾(はや)い。観音さんにも毎日挨拶した。意識はないが感謝である。感謝は神(仏)との会話である。

この一年大禍無き今が在るを師走残照に私も感謝した。

新しい年が来る。天は“ヨッシャ”と光で皆んなを眩しく輝かせる。

今年も遅れない。休んじゃダメ。

輝く諸君を天は大好き。それが虎岳の変わらぬ呼吸です。


(平成27年度12月)


 マラソンが始まった。昨年の記事が出て来た、つまりはこうだ。負けず嫌いの担任が“勝負に情は無用”と、ゴボウ抜きして児等の前に出る。子(教え子)は親(担任)に似る。過ぎた反抗期とて勝つ為なら何時でも出せる。すると年中が黙っていない。反抗期まっしぐらの渦中の者とて少なくない。ゴネて親と世間、黙らせたのはついこの間、鮮度じゃ年長を凌ぐ。其処へ“体重が敵”とこちらの担任も季節外れの反抗期引っ張り出して“子とて先頭は譲らぬ”と。この時、子等は美の前には愛憎も紙一重(ひとえ)の凄(すさ)まじさを識(し)る。寒のマラソンは反抗期総出の修羅場である。火の点(つ)いた心が寒を切る。風を切る。とりわけ園長は息を切る。それじゃ年少の若衆に顔向け出来ぬ。なら私も反抗期ヤルッ、今しか無い!!と啖呵(たんか)を切った。が如何んせん、足がもつれる。・・・(長いからではない)そんな中、年長のドベ(後から)2(番目)の女児、悠然とそれも笑い乍らゴール。世を無視出来る年齢ではない。がその雄姿に園長も見惚(ほ)れる達観の域。反抗期を捌(さば)いた技の最高を女児は見せた。自然拍手が湧く。人生の縮図が在る。

 見事、子に教えられる。立派な反抗期は美しい修羅場を創(つく)る。今年も美に挑む担任達が児等の反抗期に胸を貸す。そんな担任の意地と健気(けなげ)が子等はとても好きなのだ。

 朝のコーヒーが不味(まず)い訳がない、私には寒の一コマが有る。


(平成27年度9月)


 水は子等を透明にする。
(くるぶし)がつかる水溜り一つで自分を忘れる。見つけると飛び込んで水面を踏む。只管(ひたすら)に踏む。足元から水が飛ぶ、飛び散る飛沫(しぶき)がはしゃぐ心に重なるのか?

 足裏の逃げ残る水の抵抗が未知との遭遇なのか?何れの一つでも無い。それ等全てが心を掻き立てる。児等の精が目醒める。心が奪われる。無心となる。止ってはいけない程に本能的である。発見だが、求める答ではない。姿までが無心になっている。

 ずっと見とれていた私、“その泥だらけの服、見たらおっ母さん気絶するゾヨ”と、止めさすつもりの言葉が裏目に出た。“その通り”とばかり余計にはしゃぐ、火に油だ。“園長先生もやろッ”ちゅうて誘うてでもくれたら見境いなく私もやったであろう。

 心残りと夏が去(ゆ)く。



(平成27年度7月)

歌で朝が始まる。気合まがいの雄叫(おたけ)びに似た一人か二人の猛者(もさ)が毎年居る。邪魔だと言わんばかりにリズムは無視、ヤケクソにも聞こえる。しかし歌っているのだ。神聖な程に必死である。忍び寄って観た。自らに自信を繋いだ面構えに疑いを()れぬ。我が声に勝る危険は有るか!と言わんばかりだ。さながら戦場の勇者である。(まわ)りを睥睨(へいげい)する余裕さえ有る。自信は元気を創る。他をも元気にさせる。近所まで届いたか、聞こえたおばあさん“元気になる”と喜んで下さった。(ヤケクソだとは言わない、出来た方である。)秩序ある不協和音でクラスに支障は無い。

 外は梅雨でも内は湿気も危険も無い。私も負けてはおれぬ。コーヒーの砂糖少な目にする勇気出すッ。友よ猛者よ朝を有難となっ。



(平成27年度5月)

 母の胎動に呼吸して10()(つき)10(とお)()、涙と産ぶ声で母から別れた。4月の入園が母の手からの2度目の別れの涙である。ママーと入園の門から泣き声が走る。家に帰ると子は泣き自分を置いて去る母に何故手を放すと叫ぶ。子の背に拡がる共同生活という未知数が余りに大きい。担任が抱いて教室迄の距離を縮める。それだけでは足りぬ。泣かぬ第1歩迄に1週間、或いは10日、長くは一ト月を要する子も居る。

 “母子の絆が強い程子供は泣きます”と或る担任は私を気付かせる。成る程、助けを求める子の一ト声は新しい環境(共同生活)に向う子の母との別れの雄叫びとも、母親自身予感するのであろうか。一抹の不安は親子共に有る。

 喜怒哀楽を教える涙が春夏秋冬の四季をも子の成長に刻む。一方、子達の新たな環境で胎動し始める慶びは友、仲間、春迄が祝福するのである。

 新しい友よ、有難う、ようこそ虎岳へ!


平成26年度

(平成26年度12月)


城攻めをした。吹上城6Km往復の虎岳恒例の遠足である。帰路3分の2を過ぎた頃“歩けない”と女児5歳が涙で止った。担任に“もう直ぐだからネ”と諭
(さと)され私と最後尾より全体を追う。少し歩いては、咳き上げ涙で止まる。止めても溢れる、感情を涙と呻き声で堰き止めているのだ。横目で盗み見た。目が会えば女児は声で泣く、微妙な一瞬である。視線一つがバランスを崩す。何も出来ない。“頑ん張れるよネ”の教師のひと言は5歳に成った許りには、耐えるに余りに大き過ぎる。

 年中の仲間が、時折り振り返ってくれる優しさが女児の手を引く、“ついて来るんだヨ”と年長の背中が言葉を送る。頑ん張る自分を落ちる涙が教える。自分で5歳に挑んでいる。

 頑ん張れ5歳。6歳になったら、給食なんぼおかわりしてもエエよ。そんな自虐しか園長は言えぬ。

 頑ん張る5歳、そしてその仲間も教師も私は誇りに思う。

 集団が教える“力”を持つ。言葉を超える“力”を団体が教える。仲間が個を大きくもする。共に生活する魅力が其処に在る。

幼稚園に遅れてはいけない。

幼稚園を休んではいけない。


(平成26年度11月)


そして、あの日虎岳の若衆達が青春を(うたげ)した。大地を蹴って風も切った。
綱を掴んで親子の調和も引き寄せた。技(演技)や力を若さとエネルギーに換えた。“頑張るしかないさ”と歌うて、明日の勇気にも繋いだ。秋を“秋だ”と叫んで何の()(まど)いも無かった。秋が動いた。それ程に運動会が大空に(こだま)した。汗を刻んだ面構(つらがま)えが又一つ(たくま)しく成った。そして、その後の今も秋、天の高さに、秋の深さに、学を子等は問う。

幼稚園に遅れてはいけない。

幼稚園を休んではいけない。

おっ母様方、(よろ)しゅう頼んます。      園長